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真実を追求するやり方

数学を志す者を教育する一般的な方法は「セミナー」です。一つのテキストを輪読することですが,私も大学に入ってすぐにその洗礼を受けました。

大学院生が指導する自主セミナーに入ったのですが,初回に大失敗をしたのです。黒板の前で1行1行説明をしたのですが,矢継ぎ早に指示が飛びます。

ステートメントを述べよ。Exampleを挙げよ。Well-Definedの検証をせよ。ステートメントに論拠を含めてはならない。

黒板の前であたふたするばかりで,結局ほぼ1行も進まないで終わりました。セミナーの終わりに指導者の大学院生が言うのです。

論拠を述べた上で主張するというのが論証のスタイルであると思っているかもしれない。本もそのように書かれている。でも本に書かれていることを疑ってひとつひとつ吟味する段階では,論拠と主張とは切り離して主張のみを確かめる必要がある。

論拠を述べなければ無責任ではないかと思われるかもしれないが,主張の真偽を確かめるのはここにいるみんなである。みんなで論拠を考えればよい。

それにセミナーは報告会ではない。本に書かれていることを報告することが目的ではない。本に書かれていることをめぐって深く考えることが目的である。
だから本が論拠を挙げていてもその通り伝えてはいけない。

私はこの1回のセミナーで,数学の本の読み方ばかりではなく,真実を追求するやり方をも教わったように思います。

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ノートの作り方

勉強の本当の味方は先生でも友達でもなく,自分が書くノートだということを理解している人はどのくらいいるでしょうか。ノートは単なる書付ではなくて,思考を育てていく道具です。このことを教えてくれるノートがあるので,それをお見せする事にします。どのようにノートを作っていくか悩んでいる人に参考になると思います。

このノートは以前に私が教えた人が書いたものです。見て欲しい点が3つあります。それは次の3つです。

1°式変形に自分なりの意味を与えようと努力している。
2°自らの疑問に忠実である。自ら立てた問いに対して分かるまで考え続けている。
3°問題の本質がなんであったかを考えて「まとめ」を作っている。

以下ひとつひとつ説明します。

1°式変形に自分なりの意味を与えようと努力すること

数学が分からないという人がいう最初の言葉は「式変形の意味が分からない」です。では意味とは他人が与えてくれるものでしょうか。意味は自分が与えるものではないでしょうか。でも数学は客観的なものだから,式変形にも客観的な意味があるのではないかと思う人もいるでしょう。でも,各人が理解しようとするとき現れるのはあくまでも主観的な意味です。このノートを書いた人は,この変形はどうして行うのかとよく聞いてきます。それを聞いた上で自分なりの意味を書きつけているのです。

2°自らの疑問に忠実であること,自ら立てた問いを分かるまで考えること

「10.式と証明」の最初のページを見て下さい。ここに「疑←これが恒等式であるとなぜ①〜③の条件式がいえるのだろうか?」と赤ペンで記されています。これは自分で立てた問いであって,先生が授業中に聞いたことではありません。この問いに対して,次のページで「補足」というセクションを作って自分の解答を載せています。この問いは「恒等式ならば係数比較法が利用できる」という公式だけでは納得しないで,「恒等式とはなんなのか?」という本質にまで迫ろうとする問いです。結局それは恒等式の定義にさかのぼることになるのですが,当たり前に思っていたことが自分の問いの答えになっていたことを発見して,彼女はびっくりしています。

3°問題の本質を考えてまとめを作ること

部分部分のギャップを埋める作業が終わると,部分はどこを取ってみても理解できるのだけれど,それが全体として見るとどうしてこういう構成をとるのか分からないという段階が来ます。そこで手続きごとにブロックを作り,ひとつひとつのブロックの意味を考えたり,利用する基礎知識を整理したりします。

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小さなことを大切にする

私は子どもの頃,家では洗濯係でした。そのとき言われたのは「靴下を洗う前に一足ずつそろえておきなさい」ということでした。そんなの洗ってからでもよいじゃないかと思いましたが,その通りにしてみると,この言葉は文字通りの意味以上のことを意味していることがわかってきたのです。

丸まっている靴下を伸ばして一足ずつペアにする。この作業をしていると,結局どんなものを洗うのか事前に調べることになります。穴があいた靴下がいくつあるか,一緒に洗ってはいけないものがないか,どの組み合わせで洗うと回数を減らせるか,もこの段階でわかります。

そればかりではありません。物干しにいくつハンガーを出しておけばよいかも分かるのです。

「靴下を洗う前に一足ずつそろえる」というたった一つのことが,その一つのことにとどまらないで,洗濯のやり方全体を変えてしまうことになったのでした。

数学も洗濯と同じような小さなことがらの集まりです。洗濯より高度な構造物であるために,それを構成しているものが一つ一つの小さな工夫であることがわからなくなっているだけです。例えば,

「意味のあるまとまりが完結しないうちは,次のことに手を出さない」

とか

「与式=第1式+第2式

のような部分に分かれる計算は,各部分を計算した上で,組み合わせる」
というようなことです。このような小さな工夫を身につけていくことが数学の力を高めていくことなのです。

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言葉の意味を知るとき

すばらしい文章を喜々として決死に暗誦するのが私の修業時代でした。(田中小実昌)

これを私は雑誌の対談で読み,文章をこんな風に読む人がいることに驚きました。これは音韻の世界に住む人に許された恩寵なのだろうと思っていました。

1995年の11月のことです。私は仕事が早く終わると神戸大の図書館に行くようにしていました。知りたいことがそこにあったからです。

私は,読んだ本は,感動した部分や疑問に思った点を要点だけ書き抜くようにしていました。そのときも,先週読んだ本の抄録から抜けた部分をどうしても読みたくて丘をかけあがりました。

着いたのは7時でした。1時間でできるだけ写そうと鉛筆を走らせました。時間がわずかになっていく中で,生産される紙の束を見て,私は誤りに気づきました。

紙を持って帰ることはできても,この時間を持って帰ることはできない。

それで,私はただ読むことにしました。頭に焼き付けようと読んでいると,ふと声が出ました。その声は人気のない館内に響きました。

そのときようやく,このことばが指していることがどんなことであったのかをわかったような気がしました。

すばらしい文章をすばらしいと分かる読み手となること。
すばらしい文章に出会うことに喜々とし,
その瞬間を大切にしようと決死に暗誦するのだということを。

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ある古書店の思い出

昔,六甲に宇仁菅書店という古書店がありました。その本屋を紹介する本を古書祭りで見つけました。「三都古書グラフィティ」というもので,出版された当時(1998年)の姿をよく表しています。

店主の親父さんとの間でこんなことがありました。

古本に適正な価格が付けられていたら,その本を欲しい人にちゃんと渡るのにと私が言いました。

親父さんはしばらく考えて,「本には原価はないのだよ」と言われました。古本は一度捨てられて冥界に行ったものを,古本屋の目と手を通して取り返してきたものである。だから古本は価格が支配する世界にはない。だから古本は価格によって動かされたりはしない。そういう話をされました。

またこんなこともありました。図書館に行く前に検索して,その本があるかどうか調べられるようになって便利になったと私が言った時です。急に親父さんが険しい顔になって言いました。

毎日1冊読むとして,一年間で300冊読める。では神戸大の蔵書200万冊から300冊を読むことと神戸大の開架にある2万冊から300冊を読むことはどちらがよいのだろうか。私は2万冊から300冊を読む方がよいと思う。いや2万冊から300冊を読むよりもここにある300冊から300冊を読む方がよいと思う。

私がまだいぶかしそうにしていると,言われました。

まだわからないのか。1冊の中の1冊をどうして君は読むことができないのか。ないことをどうにかするのが学ぶことではないのか。

この古本屋に行けば怒られて帰るというのが常でした。でもそれは私に対するエールでした。古本屋さんが作る機関紙「彷書月刊」1998年3月号(震災3周年特集号)に私のことを1行だけ書いてくれたのでした。

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ブログの方針

前回の投稿から1年以上の時間が経ってしまいました。書けないでいたのは,誰に対してどのようなことを書くのかがわからなくなってしまったからです。

最近,このことの解答を教えてくれる本に出会ったのです。
それは,ナイチンゲール「看護覚え書━看護であること,看護でないこと」でした。

「はじめに」にこうあります。

「この覚え書は,看護の考え方の法則を述べて看護婦が自分で看護を学べるようにしようとしたものではけっしてないし,ましてや看護婦に看護することを教えるための手引書でもない。これは他人の健康について直接責任を負っている女性たちに,考え方のヒントを与えたいという,ただそれだけの目的で書かれたものである。

英国では女性の誰もが,あるいは少なくともほとんどすべての女性が,一生のうちに何回かは,子供とか病人とか,とにかく誰かの健康上の責任を負うことになる。言い換えれば,女性は誰もが看護婦なのである。日々の健康上の知識や看護の知識は,つまり病気にかからないような,あるいは病気から回復できるような状態にからだを整えるための知識は,もっと重視されてよい。こうした知識は誰もが身につけておくべきものであって,それは専門家のみが身につけうる医学知識とははっきり区別されるものである。

さて,女性は誰もが一生のうちにいつかは看護婦にならなくてはならないのであれば,すなわち,誰かの健康について責任をもたなければならないのであれば,ひとりひとりの女性がいかに看護するかを考えたその経験をひとつにまとめたものがあれば,どんなにか汲めどもつきない,またどんなにか価値あるものになるであろうか。
私は,女性たちにいかに看護するかを教えようとは思っていない。むしろ彼女たちに自ら学んでもらいたいと願っている。そのような目的のもとに,私はあえてここに幾つかのヒントを述べてみた。」

これを読んで私は,これが私のやるべきことであるとわかりました。

一生のうちにいつかは受験生にならなくてはならない人たちに対して,いかに学ぶかのヒントを与えること。そしてそれは自らの経験において身に染みたことでなければならない。

これからは,この方針で書いていくことにします。