すばらしい文章を喜々として決死に暗誦するのが私の修業時代でした。(田中小実昌)
これを私は雑誌の対談で読み,文章をこんな風に読む人がいることに驚きました。これは音韻の世界に住む人に許された恩寵なのだろうと思っていました。
1995年の11月のことです。私は仕事が早く終わると神戸大の図書館に行くようにしていました。知りたいことがそこにあったからです。
私は,読んだ本は,感動した部分や疑問に思った点を要点だけ書き抜くようにしていました。そのときも,先週読んだ本の抄録から抜けた部分をどうしても読みたくて丘をかけあがりました。
着いたのは7時でした。1時間でできるだけ写そうと鉛筆を走らせました。時間がわずかになっていく中で,生産される紙の束を見て,私は誤りに気づきました。
紙を持って帰ることはできても,この時間を持って帰ることはできない。
それで,私はただ読むことにしました。頭に焼き付けようと読んでいると,ふと声が出ました。その声は人気のない館内に響きました。
そのときようやく,このことばが指していることがどんなことであったのかをわかったような気がしました。
すばらしい文章をすばらしいと分かる読み手となること。
すばらしい文章に出会うことに喜々とし,
その瞬間を大切にしようと決死に暗誦するのだということを。